突然、携帯電話が鳴ったのは、金曜日の仕事中だった。
母からの電話。なぜ、こんな時間に??
「お父さんが倒れたの」
全身から血の気が引いて行くのがわかった。
呆然と立ち尽くして、何も考えられなくなった。
父が倒れたのは、長崎。ここ広島からは500キロ以上離れている。ぼくは、すぐに駆けつけることができない無力さを嘆いた。
突然の事故、入院
数年前、父は長崎で車を運転中に追突事故を起こした。
事故は信号待ちをしている時で、幸いなことに誰にも怪我はなかったのだが、ぶつけられた相手の方が、父の様子がおかしいことに気づいた。
うまく話が噛み合わないし、ろれつが回らない。
少しの時間が流れたのち、偶然、病院の先生が事故現場に通りかかった。
「大丈夫ですか?」
やはり、うまく答えられない。
すぐに病院に運ばれた。
事故現場のすぐ近くには救急病院があったのだ。
脳内出血
事故を起こしてしまったショックもあったのだろう。
(父は何年間もゴールド免許だった)
脳の血管が切れて、出血を起こしてしまったのだ。
すぐに精密検査を施し、集中治療室に入って処置を施された。
幸い、手術するほどではなかったそうだが、事故後はほとんど意識が無い状態になっていたそうだ。
話しかけても返事がない。目は開いていても、どこを見ているのか分からない。
ぼくはその日、定時まで仕事をして、翌日になってから母と二人で長崎へ向かった。
病室での再会
翌日、病室で寝ている父を見た。
目を開けてこちらを見ている父を見たときに、
つらくて、悲しくて、言葉にならなかった。
ただ、手を握って、祈ることしかできなかった。
命だけは助かったことに感謝すると同時に、
どれだけ後遺症が残るか分からない恐怖にただ、怯えるしかなかった。
それでも、ぼくも母も長崎にずっといるわけにはいかないので、
父の看病は親戚の叔母さんにお願いすることにして、
一度広島に帰った。
後から聞いたら、事故直後にぼくたちと会ったことは、まったく何も覚えていないそうだ。
意識を取り戻したが・・・
父が意識を取り戻したのは、1週間ほど経ってからだ。
脳にはテニスボールほど出血がたまり、その影響で、はっきりと言葉を発することができない。
右半身が動かなくなり、もちろん歩くこともできない。
車椅子生活。
意識はほぼ戻ったが、思うように動かないカラダ。
さらに1ヶ月ほど経ったころには、出血の拡大もなくなり、ある程度容体が安定したタイミングで、広島の病院に転院することができた。
ただ、その時点ではまだ、歩くこともできず、介護なしでは生活できない状態だった。
話しかけても、ある程度は理解してるようだが、言葉を返すことはできない。
入院生活とリハビリ
それから6ヶ月間の入院生活。
病院の先生の話では、再び歩けるかどうかは、本人の努力次第とのことだった。
父は、驚くほどのスピードで快復していった。
6ヶ月後、退院するときには、杖なしで歩けるようになっていた。
父は決して努力を人に見せない。
家族の見ていないところで相当努力したのだと思う。
しかし、出血した箇所が悪かったらしく、会話は以前の半分ほどしか戻っていない。
以前のように、会う人みんなを楽しませて、笑わせてくれる父の姿はもう見ることができない。
父は、幸運だった
- たまたまぶつかった相手が白バイで、冷静に父の異変に気付いてくれたこと。
- 事故現場を、偶然、医者が通りかかってすぐに病院へ運んでくれたこと。
- すぐ近くに救急病院があり、処置がすぐ行えたこと。
- 発症したのが、高速道路に入る直前の、一般道だったこと。
- 信号待ちでスピードを落としたタイミングだったこと。
もし何か一つでも欠けていたなら、父はいま生きていないだろう。命に縁があったことには感謝しかない。
脳内出血から数年経って
相変わらず、会話は以前の5割くらいで、思い通りに話せないことが多い。
しかし、身体の方は確実に元気を取り戻しつつある。退院の時点で自分のことは自分でできるところまで快復していた父は、見ただけでは半身不随だったと分からないくらいに元気になった。
ご先祖さまかどうか分からないけれど、心から感謝します。
これほど心の底から強く思った日は、他にあっただろうか
ーおわりー